日・米・馬  家族とともに世界に雄飛する 後半

バーミリオンコンフェレンスセンター代表 長谷川斉氏
投資家/バーミリオンコンフェレンスセンター代表 長谷川斉氏
Investor / Chairman of Vermiljoen Conference Center Sdn. Bhd.:Hitoshi Hasegawa
THE KLインタビュー vol.2(後半)

 

 

東南アジアを拠点に活躍される経済人、事業家の人物像にせまるTHE KLインタビュー。第二弾のゲストに、2014年より東南アジアビジネスに着目し、現在KLに拠点を置く長谷川斉氏を迎えた。アメリカで弁護士として活躍、その後33歳で日本に帰国し、孫正義氏とともにネットバブル時代を駆け抜けた長谷川氏。世界を舞台にした数々のエピソード、東南アジアビジネスへの想いから子どもの教育までを聞き出す、長谷川斉氏×池田諭の軽快な対談が実現した。
(本記事は後半部分となります。前半記事はこちらから

 

 

 

ソフトバンク法務審査室長のポジションを得て日本に帰国

 

池田:ソフトバンク、当時からベンチャーとしてすごい勢いでしたか。

長谷川:当時の北尾CFOとの面談のために、梶川さん(元Yahoo! Japan CFO)に電話して。シカゴからかけたんですが「来週金曜日に会社に来てほしい。」と言われまして。すぐに、アメリカから飛んでソフトバンク本社があった箱崎オフィスへ行き、北尾さんとお会いしました。その場で法務審査室長のオファーを頂戴し、12年ぶりに家族と日本に帰る運びとなりました。

 

池田:孫さんともお仕事を一緒に?

長谷川:はい。ある件で社長に気に入られて、部屋にしょっちゅう呼ばれるようになって。法務がらみの話が多かったので、社長が出すアイディアに僕がいろいろ言いながらホワイトボードにチャートを書いたりしていましたね。インターネットの世界は未知でしたので、勉強もしました。そのうち、ソフトバンクの分社化で僕も含めて財務系が本体から分かれることになったんです。そうすると僕は孫さんとは離れることになる。

 

池田:孫さんがいるからソフトバンクに入られた部分もありましたよね。

長谷川:なので、99年にローファーム(モリソンフォースター)への転職を決めました。ところが転職後の3週間は暇だったんです。

と、ある日1枚FAXが届きまして。「孫」って書いてあるんです。要件は「ジョイントベンチャーでナスダックジャパンをやるので、お前が契約をまとめるように」ということで、依頼(命令)を受けました。ちょうどネットバブルで、何をやったか覚えてないくらい忙しい日々が始まりました。

 

池田:相当エキサイティングだったでしょう。

長谷川:それはもう本当に。99年暮れにはほとんどソフトバンクにいました。ソフトバンクの名刺ももらっていましたね。孫さんの飛行機で世界中に飛び、飛行機の中で会議です。僕が、手書きでLetter of Intent(≒基本合意書)をホワイトボードに書いて、感熱紙で出力してコピー。その場でサインです。これで基本合意成立、という具合でした。あと、こんなこともありました。サンノゼでもニューヨークでも、孫さんへの来客は30分ごとに入れ替わるくらいアポイントがつまっていましたが、中国ではWブッキング事件が。孫さんの代わりに、上海のお偉いさんに僕が代理で対応したなんてこともありました。

その後、いろいろありまして。僕もソフトバンクを離れることになりますがとてもよい経験をさせていただきました。

 

池田:いろいろと、、、。孫さんからのFAX1枚にスタートし、順調なストーリーに見えましたが。

長谷川:表現は難しいですが、離れたときも、社長と僕の間に後味の悪さはまったくありませんでした。僕にとっては社長は生きている人の中で一番尊敬している方です。そして2001年にカーライルに移ります。

 

 

 

投資家向けのスピーチをするはずだった「2001年9月11日」

 

長谷川:カーライルではドラマのような契約金を提示され、「それで!」と決めました。2001年9月11日、僕は投資家にスピーチする予定でワシントンにいました。練習を終えて、下に降りるやいなや「今日はもう中止だ!無理無理!」と大騒ぎになっていました。

 

池田:すぐには状況がわからなかったですか?

長谷川:よく聞いていると「貿易センタービルに飛行機が2機突っ込んだ」ということがわかりました。そしてペンタゴンにも、という情報が。僕たちも、投資家の方たちも帰れなくなりました。町に装甲車もでていました。

 

池田:ワシントンでしたか。何日後に飛行機がでたんですか?

長谷川:確か5日後です。そう、ダレス空港から一番最初に飛んだのはなんと日本の飛行機、全日空だったんですよ。

 

池田:長谷川さんも5日後には出発できたんですね。

長谷川:違うんです。その全日空には一人の人間とそのまわりの人間しか乗れなかった。誰だったと思います? 石原慎太郎(当時:東京都知事)です。彼と数人だけ乗せて帰ってしまったんです。その翌日の飛行機にやっと乗ることができました。

 

池田:事件の後、ビジネスへの影響も?

長谷川:お察しのとおりです。その後、残りの契約金をもらい退職しました。2003年の春にローンスターで不動産をやるまで、約1年間「プー太郎」していました。

 

池田1年好きなことをされて。90年代後半からの不良債権処理、そこからは第2フェーズのスタートといった感じでしたか?

長谷川:絶頂期ですよね。会社更生が入っていたり民事再生が入っていたり、そこに行って法律関係を軸に、買える仕組みを考えていました。ホテルが多かったですね。

そして、次にクリードに。この時代もおもしろかった。小泉さんのおかげで不良債権処理も終わって。その信頼感の中で不動産価値が上がり、、

 

池田:でも、短かった。

長谷川:リーマンショックが起きるまで、のね。2006年にお金を集めて2007年のはじめにロンドンに行き、会社のIRで投資家に質問されたんです。「サブプライムの影響はどうですか?」って。影響ない、と返しましたが、その後からですよね。10月にCMBSが止まってお金を借りられなくなり「やばい」という焦燥感が漂い始め。その頃から物件を売り始めましたよ。そして2008年9月、リーマンが倒れた、と。そこから会社は早い決断をします。4か月で会社更生法の適用を申請しました。

 

池田:潔ぎよかったみたいですね、粘る会社も多かったと思いますが。そこから、2014年にマレーシア訪問されるまでの間は?

長谷川:2010年にはバーミリオンキャピタルマネジメントを設立しました。とあるファンド組成の相談を受け、シンガポールに飛んだりマーケティングをし始めていた矢先、2011年3月の東日本大震災。その後は香港やシンガポールでももう日本の不動産はだめでした。

 

池田:原発問題もありましたね。

長谷川:そうですね。震災後半年は、もう何も考えられない状態でした。その後、レジファンド、地方のオフィスファンドなどの組成を企画しましたが、地震の影響が緩みながらも反応が良いとは言えなかったです。

そんな中、ロンドンの投資家が興味を示し話が一気に進んだかに見えたのですが、突然雲行きが怪しくなり、最後梯子を外されまして。結局、縮小していきました。

 

 

 

これからは東南アジアだ KLでの視察開始

 

長谷川:それまでの案件を一掃し、東南アジアを中心に事業を検討し始めました。その時に思いついたのが貸会議室ビジネス。そして2014年4月に、KLでマーカスエヴァンスのイベントが開催されるということで、行ってみようということに。

 

池田:あぁ、2014年でしたね・・・。

長谷川:そう、せっかくKLに行くんだから不動産マーケットも視察しようという話になって。Googleで検察したら、池田さんのグループ会社(現:アジア・プロミネント・キャピタル・マネジメント社)の広告が一番にでてきたので、ここに聞いてみようと。それで池田さんにもお会いしましたよね。あの時、僕の相棒は、このオフィスのラウンジで(指さしながら)倒れてましたね。前日にペタリンストリートで「茶色の飲み物」を飲んであたっちゃって。

 

池田:それはなんだったんでしょう・・・。テタレ、でしょうか。

長谷川:水槽からすくってもらう飲み物でしたよ(笑)。それで、あの時の不動産視察と、ドバイ、韓国での視察との比較、引き続き日本での調査など僕なりの分析を経て、3か月ほどたってもう少し真剣にマレーシアを考えてみようと。そこでまた池田さんにお世話になりましたね。

 

池田:今は貸会議室の事業をメインで?

長谷川:はい、MITINという貸会議室を2拠点オープンしています。マーケットポテンシャルは十分にあると考えています。競合もありますが、価格の面で優位性を全面にだしつつ。成長させることが楽しみです。

 

 

 

子どもの教育は「本人の意志」をくみ取りながら

 

池田:ところで、長谷川さんはご自身がアメリカの教育を経験されていますね。お子さんたちにはどのような教育方針を?

長谷川:子どもはそれぞれ日本、アメリカ、マレーシアで教育を受けています。上の子はもう社会人ですが学業はアメリカベースで育ちました。

アメリカでは、ものごとの見方、とか、どういう角度でみるべきか、どう調べるべきか、どう組み立てるのか、どうやって伝えるのか、小さいときから訓練されます。日本だと一辺倒にノートをとってテストのために暗記することがメイン。一方、先生とのインターアクションや授業参加が増えることもアメリカの学校の特徴です。

ただアメリカの良い学校は入学競争が激化していると聞きます。とある学校の例を出しますと、各国籍で5人の枠のところに中国人だと1000人(!)受験してくるそうです。韓国人もすごい。つまり相当レベルの高い5人が入ってくるので全体のレベルもどんどん上がっていると。英語が相当できないと日本人は難しいと言われています。アメリカでプレッピーと呼ばれるような学校はTOEFL iBT100(≒TOEFL PBT/iTP600)以上ないとだめだそうです。14,15歳で中国の子は得点しますからね・・・すごいです。

 

池田:長谷川さんのお子さんの学校選びはどのように?

長谷川:例のKL視察の時に、ちょうどミッドバレーにあるモールでインターナショナルスクールフェア※をやってたんです。そこで情報を得ました。本人の意思も確認し、自分の事業のマレーシア展開と時期が重なることもあったので、子どもをインターに編入させました。マレーシアは、学校の選択肢も豊富で、子どもの英語のレベルにあったインターを選択できることが魅力ですね。

※プライベート・インターナショナルスクール・フェアのこと。年2回、マレーシアで開催される最大規模のインターのスクールフェア。30校以上がブースを設け、2日間様々なセッションも行われる。

 

池田:日本、アメリカ、マレーシア。今後の移住プランは?

長谷川:海外が長いですが、日本が好きですよ。アメリカ時代も移住したいと思ったことはなかったですから。次のステップは考えるけれど、住む場所については学業や人生の転機にあわせて、「惰性」に任せてきたとも言えます(笑)

 

池田:では、長谷川さんが今考える次のステップは?

長谷川:始めたばかりの貸会議室MITINの東南アジアでの拡大。KLを中心に、今後の成長が楽しみです。

 

 

 

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対談でありながら、まるで経済年表を長谷川氏の経歴とともに辿ったような、インプットの多い実りある時間となった。まわりを一気に引き込む明快なトークは対談終了後も続き、いつのまにかゴルフの話に。KLのゴルフ事情についても、ぜひ長谷川氏の観点でじっくり聞いてみたい。(THE KL)

 

長谷川斉氏 THE KLインタビュー vol.2 (前半) 記事はコチラ 》

 

■長谷川斉氏 プロフィール■
元株式会社Vermilion会長。2016年11月までVermilion Capital Management株式会社代表取締役。2005年から2008年まで、株式会社クリード代表取締役を務めた。それ以前は、ローン・スター・ジャパ ン・アクイジッションズにおいて企業及び不動産投資案件のオリジネーションに関与。カーライル・グループではマネージング・ディレクターとして、ベンチャー企業への投資及びマネジメント業務に従事した。また、モリソン・フォースター外国法事務弁護士事務所においては、パートナーとして様々なM&A、戦略的提携、企業投資、ジョイント・ベンチャーに関して クライアント企業の代理を務めたほか、ソフトバンク株式会社ではマネージング・ディレクター兼ゼネラル・カウンセルとして様々な投資案件に関与した。ミシガン大学教養学部卒業(経済学専攻)、ミネソタ大学ロースクールにてJuris Doctorを取得。